2008年02月27日

戦闘の経過および検証


このような制度があったのですね。
見えないところで大変なんだなぁ。


戦闘の契機
セビリャのタイファアッバード3世アル=ムウタミド(Abbad III al-Mu'tamid)をはじめとするタイファ諸国の救援要請に応じて、ムラービト朝のアミール、ユースフ・イブン・ターシュフィーンは7千の兵を率いてアンダルシアへ上陸した。サグラハスまで進軍する過程でいたるところからイスラム兵が加わり、最終的には3万までふくれあがった。 カスティリア王アルフォンソ6世は、6万といわれる兵を率いて戦場に到着した。

両者は互いに宣戦を布告しあった。ユースフ・イブン=ターシュフィーンは、「改宗(コーラン)か貢納か剣(戦い)か」の選択を相手に迫り、アルフォンソは、戦う姿勢を貫いて、金曜日から戦端がひらかれた。最初に突撃を開始したのはアルフォンソ6世からであった。緒戦はほぼ互角であり、後述するようにイスラム軍側も少なからず損害をだした。ユースフ・イブン・ターシュフィンは自軍を、アッバード3世アルムスタミドの1万5千、自らの1万1千、4千のインド式の剣と長い投げ槍をもった黒人重装歩兵の三つに分けた。アッパード3世アルムスタミドの軍勢はアルフォンソの軍勢と直接戦い始め、やがてユースフ率いる1万1千がその戦列に加わり包囲をはじめた。ムラービト軍本隊の打ち鳴らす太鼓の音と今まで見たこともない浅黒い戦士たちの隊列は、カスティリヤ軍に未知なるものへの恐怖感をじわじわ与え、アルフォンソは揮下の精鋭を手元に引き返させたことがイスラム連合軍の士気を高めさせた。勢いに乗りはじめたイスラム連合軍は怯えと混乱に陥ったカスティリア軍に包囲攻撃を加えて、そこへイスラム軍の黒人歩兵軍がとどめの攻撃を加えた。 カスティリア軍は戦死者59,500という甚大な被害を出して大敗し、わずか100名の騎兵が帰還できただけだったという。アルフォンソ6世もなんとか命からがら戦場から離脱できたものの、片足を失うこととなった。

この戦場は、サラカ(ザッラーカ ??????? al-Zallāqah、英語に訳すと「滑りやすい大地(slippery ground)」)と呼ばれた。つまり戦場で多量の戦死者がでたためにその血で滑りやすい場所となったためにそう名づけられたという。

ところで実際にはほぼ同時代の記録にもかかわらず、実際に戦闘に加わった人数について誇張しすぎではと考えられている。カスティーリヤ軍は2000ほどの騎兵を含めて全部で14,000ほどであったと考えられている。そしてそのうち少なくとも半数は確実に失われたとみられている。ロドリゴ=ムーニョス(Rodrigo Muñoz)やベラ=オベゲス(Vela Oveguez)などの戦死者はいたものの、怪我をしたアルフォンソ6世自身と貴族たちの大部分は生き残って引き返すことができた。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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